北茨城市ゆかりの人物・岡倉天心

2009年1月26日

幼少時代 新しい日本画の創造

岡倉天心(茨城県天心記念五浦美術館提供)


岡倉天心の写真(茨城県天心記念五浦美術館提供)


岡倉天心は、文久2年(1862)12月26日横浜に生まれました。父勘右衛門(元福井藩士)、母このの次男で幼名は覚蔵あるいは、角蔵と名づけられました。のちに覚三に改められます。

英語や漢籍を少年時代から学び、明治8年東京開成学校(現在東京大学)に入学すると、外国人教師として招かれていたアーネスト・フェノロサに師事し、通訳も務めました。

フェノロサが東洋美術に大きな関心をよせたのに触発された天心は、日本美術の研究に専念するようになりました。

卒業後、文部省に勤めた天心は、明治19年ヨーロッパへ美術視察のために派遣されます。帰国後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の幹事となり開校に力を注ぎます。

明治23年に、校長に就任してからは、日本美術の伝統を踏まえた新しい日本画を創造するという独自の理論を展開しました。

日本美術院の創設と五浦移転

六角堂


六角堂


この時代、天心は衰退していた日本画を復興し、狩野芳崖や橋本雅邦などを教授に任命し世に出していきました。しかし明治31年の校内騒動をきっかけに校長の職を追われます。その半年後に東京谷中に日本美術院を創設し、横山大観、下村観山、菱田春草らの青年画家を率いて新しい日本画の創造運動をすすめ、のちに日本画の線を画面から取り去り、色彩を主とした「蒙朧体」と呼ばれる作風を完成させました。日本美術院主要作家の海外渡航による長期不在や蒙朧体への批判・不振もあって、明治後半期になると日本美術院は経営難に陥ります。明治39年、天心は再建を期して日本美術院第一部(絵画)を茨城県大津町五浦(現在の北茨城市大津町)に移転しました。 天心は居宅の一隅に、自身でデザインした六角堂を建設します。ここで海を眺めながら思索にふけりました(天心居宅、長屋門、六角堂は登録文化財)。

この時、天心に従い、家族とともども五浦に移り住んだのが横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山でした。四人は住居から日本美術院研究所(北茨城指定文化財「日本美術院第一部五浦研究所」にあった。)に通い、海に面した35畳敷きの広間で天心の指導を受け作品を創作しました。やがて、ここで生まれた作品は文部省美術展覧会などに出品された好評を博し、近代日本画に残る名作となりました。

晩年の天心

岡倉天心墓地(北茨城市大津町)


岡倉天心墓地(北茨城市大津町)


その後ボストン美術館中国日本部部長を務めるとともに、「茶の本」など多くの著作を刊行し国際的にも名声を高めました。

大正2年9月2日、天心は新潟県妙高村赤倉温泉(現在の妙高市)の山荘で50歳の生涯を閉じます。遺骨は、東京染井墓地に納められました。その後、遺言に従い分骨され、遺族の手で五浦旧居の一角に土をもって作られたお墓に埋葬にされました。(北茨城市指定文化財「岡倉天心墓地」)

タゴールとの出会い

天心はフェノロサをはじめとして多くの知友から影響を受け、思想を確立してきました。その中でも大きな影響を受けたのがタゴールでした。

明治34年のインドを訪問時に詩人であるタゴール(アジア人初のノーベル文学賞受賞者)と出会います。タゴールと天心はお互いに議論を深め、天心自身が提唱した「アジアは一つである」という思想について理解を深め合います。

天心から大きな影響をうけたタゴールは講演「東洋と日本の使命」で以下のように述べている。「幾年か前のことです。わたしは日本の国からきた一人の偉大な独創的な人物に接したときに、真の日本に出会いました。・・東方の声がこの人から、わたしどもの国の若い人々に伝えられました。これは意義深い事件であり、わたし自身の生涯の中の、記念すべき出来事でありました。彼は東洋の真価にふさわしい人間の精神に雄大な表現を与えることを生涯の使命とするように、青年たちに要求しました。」

タゴールは数度日本を訪れています。大正5年(1916)に日本へ来た時には五浦に足を運び、すでに亡くなっていた天心を偲びました。

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